一週間前。
モコから「姉さんが目を覚ました」と聞いて、ライカはすぐに病室へ向かった。
けれど、会えなかった。
リタは、自分が軽率だったことに気づいて激しく落ち込んでいた。
しばらくそっとしておいてあげてほしいとリタの両親の意向で、面会は叶わなかった。
その数日後。
ライカのスマートフォンが震えた。
リタ本人からLINEが届いた。
『ライカ、ごめんね。お見舞い来てくれたんだってね。うちの親が帰らせちゃったみたいでごめん。』
『もしよかったら、どうやって私たちが助かったのか、あの日のこと聞かせてほしいな。』
『時間合う時で全然構わないから。待ってるね。』
『鈴も順調に回復しているって聞いたから、安心してる。』
――そして今日。
病室の窓から差し込む夕陽が、白いカーテンを淡く朱色に染めていた。
消毒液の匂いが漂う静かな病室で、リタはベッドにもたれ、窓の外をぼんやり眺めている。
包帯の巻かれた腕は、まだ自由に動かせない。
痛みは和らいできたとはいえ、以前のように身体を動かせるには程遠かった。
コンコン、と控えめなノックが響く。
「失礼します」
聞き慣れた声に、リタは勢いよく振り向いた。
「あ、ライカ! 待ってたよ!」
ドアを開けて入ってきたライカは、小さく笑って紙袋を掲げる。
「差し入れ。先輩が好きなプリン、買ってきました」
「おぉ! さすが私の後輩。分かってるねぇ」
包帯の巻かれた腕で受け取ろうとして、顔をしかめる。
「痛っ……」
それでも笑顔は崩さなかった。
ライカはベッド脇の椅子へ腰を下ろす。
学校のこと。
文化祭のこと。
他愛のない話が続いた。
しばらくして、リタが思い出したように口を開く。
「ねえ、ライカ」
「はい?」
「あの日のこと、聞いていい?」
「どうやって私たちが助かったのか、教えてほしい」
「……うん」
ライカは少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「あの日、私たち以外の演奏妖精が助けに来てくれたんです」
「うん……そうらしいね」
「はい。紫音ちゃんって言うんですけど」
ライカは、あの日を思い出すように少し遠い目をした。
「私、リタ先輩と鈴先輩がピンチだった時、怖くて動けなかったんです」
「でも、あの怪物がどうしても許せなくて。絶対に負けないって思って」
「もう、やけくそで倒してやろうと思ったんですけど、全然攻撃が効かなくて」
「心のどこかでは、もう諦めかけてた……」
ライカは一度、言葉を止めた。
「もうダメだ、って思った時、その子が怪物の前に立っていたんです」
小さな背中だった。
少しも怖がっているようには見えなかった。
私には、その小さな背中が、とても大きく見えた。
「私、呆然としちゃって。何が起こったのか、よく分からなかった」
「目の前に、綺麗な女の子が立ってて……『早く逃げて! あとは私が引き受けるから!』って」
「それで、私たちから怪物を引き離すように、どんどん離れていって。戦ってくれたんです」
「だから私、先輩たちのところに戻ることができて……」
「リタ先輩は大丈夫だった。息してたから」
「でも、鈴先輩がすごく大変なことになってて」
「怖くなって、もう私じゃどうにもできないって思って」
「それで、誰か助けて! って叫びながら、走り回ったんです」
「そしたら、救急隊員の人が待機してくれてたみたいで、すぐに見つけてくれて」
「その人たちに先輩たちのことをお願いしたんです」
「救急隊員の人が、私も病院へって言ってくれたんですけど……」
ライカの声が、少しだけ切なくなる。
「助けてくれた、あの子のことが頭から離れなくて」
「あの子が戦ってくれてるのに、私だけ逃げるなんてできなくて」
「すぐに戻らなくちゃ!って思って」
「また、怪物のところに戻ったんです」
「戻ったら、紫音ちゃんがピンチで」
ライカは小さく息を吐いた。
「そこからはもう無我夢中だったから、正直あんまり覚えてないんですけど……」
「助けなくちゃ! って思って」
「だって、ありがとうも言えてないのに!」
その声に、少しだけ笑いが混じった。
「なんか、普段だったらめっちゃミスるようなリフも弾いた気がします」
「全部ぶつけた気がする」
「紫音ちゃんと一緒に、無我夢中で怪物と戦って……」
「気づいたら、怪物は消えてました」
ライカは、静かに笑った。
「だから、紫音ちゃんが助けてくれたんですよ。私たちのこと」
その言葉には、心からの感謝が滲んでいた。
「紫音ちゃんが助けてくれなかったら、私も助からなかったです」
リタは微笑んだ。
「へぇ。会ってみたいな、その子」
「命の恩人じゃん」
「退院したら、お礼言わなきゃ」
それから、少しだけ間を置いて。
「あとさ、ライカも」
「私にとっての命の恩人だよ」
「ありがとうね。ライカ」
「えぇ!? どうしたんですか、急に改まって。先輩らしくない」
ライカが少し驚いたように笑う。
リタも笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
窓の外へ目を向ける。
夕陽が、ゆっくりと街を赤く染めていた。
やがて、リタがぽつりと口を開く。
「……でもさ」
「わたしが一緒に演奏妖精やろう、なんてライカを誘わなければ……こんなことにならなかったよね」
視線が、白い包帯へ落ちる。
「あんたは普通の高校生だった」
「鈴だって、あんな目に遭わなかった」
「そんなこと――」
ライカが言いかける。
リタは首を振った。
「最初はさ、演奏妖精って面白そうじゃん、くらいだった」
「私にはライブの延長線上みたいな感じ。目立って、カッコつけて」
苦笑が漏れる。
「たまたま学校に現れたファントムやっつけちゃって、いい気になって」
「鈴とライカ誘って。そしたら、二人も戦えるって分かって……運命だ! とか思った」
「あちこち走り回って戦って――」
リタは、自分の包帯を見つめる。
「でも、結果がこれ」
「攻めることしか考えてなかった」
「自分が吹っ飛ぶのはいい」
「でも……」
リタは顔を上げ、ライカを真っ直ぐ見た。
「あんたと鈴は違う」
「わたしが巻き込んだ」
短く息を吸う。
「だから……もう、戦うのはやめてほしい」
ライカは俯いたまま黙っていた。
静かな時間だけが流れる。
やがて、ライカが小さく口を開いた。
「……先輩が言いたいことは、分かりました」
顔を上げる。
「でも、ごめん。私、やめないよ」
リタが眉を寄せる。
「なんでよ。あんたはもう戦う必要なんてない!」
「私が巻き込んだだけなんだから!」
ライカは、窓の外の夕焼けを見つめた。
「….そうですね。怖いです」
それでも、ライカは小さく笑った。
そして、顔を上げる。
「でも、紫音ちゃんが戦ってるんです」
「私だけ普通の生活に戻るなんて、できない」
その瞳に、もう迷いはなかった。
「助けてもらったから、恩返ししたい。でも、それだけじゃないです」
「私も先輩みたいに、紫音ちゃんみたいに、自分の意志で戦いたい」
「怪物が本当にいて、なぜか自分には、戦える力があるみたいだから」
「だったら、誰かの役に立てるなら、私は戦います」
「何より……ひとりで戦ってる紫音ちゃんの側にいて、一緒に戦いたい」
「今は、そう思ってます」
ライカは一度、言葉を止めた。
「先輩は、きっかけをくれたんです」
「みんなと一緒に戦ってるとき、楽しかった」
「でも、今回のことで……戦いが甘くないことも分かりました」
「それでも、戦わなくちゃって思ってるんです」
「誰かを守れる力が、自分にあるって気づかせてくれたのは先輩です」
「だから……もう、迷わないです」
リタは、しばらくライカを見つめていた。
「……そっか」
それだけ言って、窓の外へ目を向ける。
夕陽は、もうほとんど沈みかけていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、リタが静かに口を開く。
「わたしさ」
「それでも、ライカに戦ってほしくないって思ってる」
「怖いよ」
リタは、包帯の巻かれた自分の腕に目を落とした。
「あんたに万が一のことがあったらって思うと……怖い」
「でも……もう、止めないよ」
ライカが、少し驚いたようにリタを見る。
「だって、あんたが自分で決めたんだもんね」
「……はい」
「だったら、わたしも応援しなきゃね」
リタは、ほんの少し笑った。
「自分が巻き込んだ後輩が、自分の意志で戦うって言ってるんだもん」
「先輩……」
「ただし!」
リタが急に真剣な顔になる。
「ライカ。お願い」
「無茶だけは、絶対にしないで」
「私、あんたに何かあったら……本当に自分を許せなくなる」
「だから、私のためにも無茶はしないで」
ライカは、少し困ったように笑った。
「難しいお願いですね」
「しかも、先輩らしい自分勝手なお願いです」
「なによ、それ」
「でも……分かりました」
ライカは、リタを真っ直ぐ見た。
「無理はしません。約束します」
「……うん」
リタは小さく頷いた。
けれど、その約束を聞いても、不安が消えるわけではなかった。
戦う以上、何も起こらないなんて保証はどこにもない。
ライカだって、それくらい分かっているはずだ。
きっと、この約束だけで安心できるほど簡単なことじゃない。
それでも。
もう、ライカを止めることはできない。
自分が決めた道を歩き始めた後輩を、今度は信じるしかなかった。
「……じゃあ、絶対、無理はしないこと」
「絶対だからね」
「はーい」
ライカは、少し気のない返事を返した。
リタがじっと睨む。
「……なんか、リタ先輩、お母さんみたい」
「え?」
一瞬きょとんとしたあと、リタは吹き出した。
「あはは。私も、お母さんの気持ちがちょっと分かったよ」
「子どもが危ないことしようとすると、止めたくなるんだね」
「誰が子どもですか」
「後輩」
「雑すぎません?」
二人は顔を見合わせて笑った。
さっきまで胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
リタはまだ怖かった。
ライカが戦うことを、心から安心して受け入れたわけでもない。
それでも今は。
こうして笑い合える時間を、大切にしたかった。
夕陽が沈み、病室に静かな夜が近づいていた。
二人はそれから、また他愛のない話をした。






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