一
モコは、売店でプリンを四つ買った。
それだけなのに、ビニール袋は指に食い込むように重い気がした。
こんなに重いはずがない。
(ライカが来てるからかな?)
あの日、待合室で怒鳴ってしまってから、
ライカとはまだ一度もちゃんと話せていない。
姉が目を覚ましたとき、モコは無意識にライカへLINEを送っていた。
今読み返すと、事務的な文面にも受け取れる。
ライカと上手く話せないで、ウジウジしている自分がいやだった。
モコは袋を持ち直した。
六階でエレベーターを降りる。
リノリウムの床が、靴の裏をきゅっと鳴らした。
ナースステーションの奥で、誰かの機械がゆっくりと電子音を刻んでいる。
六〇二号室。
入口のドアが、半分開いていた。
「……わかった。でも、ごめん。私、やめないよ」
ライカの声。
モコは足を止めた。
「なんでよ? あんたが続ける理由なんて、もうないじゃん!」
姉の声は、戸惑っているような、怖がっているような響き。
「……そうですね。怖いです」
少しの間があった。
「でも、紫音ちゃんが戦ってるんです。
私だけ普通の生活に戻るなんて、できない」
聞くつもりはなかった。
でも、その場を離れることもできなかった。
モコはドアの陰に隠れるようにして、二人の会話を聞いていた。
袋の中で、プリンが傾いた。
やがて、病室から笑い声が聞こえてくる。
モコは廊下の角まで戻った。
壁に背中をつけて、袋を両手で抱える。
冷たかった。
ドアの開く音がした。
「じゃあ、またプリン持ってきますね」
ライカの声だった。
スニーカーの音が近づいてくる。
モコは顔を上げなかった。
足音は、そのまま通り過ぎていった。
聞こえなくなってから、モコは病室へ向かった。
ドアを開ける。
姉と、すぐに目が合った。
二
「モコ」
「何?」
「モコ……どうしよう」
いつもの声ではなかった。
「何? どうしたの?」
「モコ……どうしよう……」
姉は同じ言葉を繰り返した。
左腕は吊られたままで、右手でシーツを握っている。
「モコ……演奏妖精やってくれない?」
袋を持ったまま、モコは動きを止めた。
「はぁ!? 何言ってんの!?」
「……」
「ほんと姉さんは何考えてるか分かんない!
自分が死にかけたのに、私にそれをやれって!?」
声が、思っていたより病室に響いた。
隣のベッドとの間のカーテンが、わずかに揺れる。
……あっ。
モコは口を閉じた。
ここは病院だ。分かっている。
分かっているのに、いつもこうだ。
「……なんのために、私が?」
声を落として、それだけ言った。
「……ライカが、演奏妖精続けるって。やめないって言ったの」
(……知ってる)
さっき、ドアの前で聞いてしまった。
三
「私、心配なんだよ。ライカのことが」
姉の声から、勢いが抜けていた。
「私が誘って、私が始めたことだ。
でも私、ファントムと戦うことを甘く考えてた。
自分の力に自惚れてた。
いつも自分のことばっかりで、やりたいことのために周りを巻き込む」
右手が、シーツの上で止まる。
「ここで目が覚めて、ライカと鈴が無事だって知って、本当に安心した。
……もじも」
そこで、声が崩れた。
「もじ、ふだりに、なにがあっだらって、がんがえだら……こわぐで」
右手が顔を覆う。
指の間から、息が漏れていた。
姉が泣くところを、モコは数えるほどしか見たことがない。
「ごんな危ないごと、もうやめようって思っだ。
……でも、さっき、ライカが、だだかうっで言っでだの。
止めだかった。止めたかっだげど、あの子の目が、本気だっだんだ。
本気だっだの、あいづ。
だがら、止めぢゃいけない気がしぢゃっで……応援するって、言っぢゃっだ」
「……」
「でも、違う。どうしよう。もし、ライカに何かあったらどうじよう。
わだじのぜいだよ。わだじが誘っだがら」
顔を覆ったまま、姉は言った。
「モコ。おねがい。ライカを、止めで」
モコは何も言えなかった。
「……だめだ」
姉が、首を振る。
「絶対に止まんない。あいづ」
しゃくり上げる音が、二度続いた。
「モコ……ごめん」
「え?」
「今、あんたの気持ちが分かった」
姉は、顔から手を離さなかった。
「あんたが、止める気持ちが、今、分かった」
袋の重さが、急に分からなくなった。
「……モコ、お願い。ライカを守ってあげでほじいの」
四
「……わかった。分かったから、落ち着いて」
モコは椅子を引いて、ベッドの脇に座った。
「私、姉さんが病院に運ばれてきた日、ライカに言っちゃったの。
なんで姉さんを止めてくれなかったんだって」
姉が顔を上げる。
「自分ができなかったことを、ライカのせいにしちゃった……最低」
「モコ……」
「あの日からライカと気まずくなっちゃって、ずっとウジウジしてた」
「……」
「私も、ライカが心配。戦って欲しくない」
「うん」
「さっき、二人が話してるの聞いちゃったの。ライカが戦うつもりだって」
息を吐く。
「姉さん……私も、いっぱい考えたの」
「うん」
「私、みんなが戦うのは反対だったよ。危険だもん」
そこで一度、言葉が止まった。
「でも……誘ってもらえなかったことも、寂しかった」
「え?」
「自分でも分かってる。いっつも姉さんがやることに、私、消極的だもんね。
誘われなくて当然。わかってる」
「……」
「でも、小さい頃は姉さん違ったじゃない。
いつも強引に、私のこと引っ張り出してさ」
「……モコだって、だのじんでだじゃん」
「うん」
モコは頷いた。
「姉さんに強引に引っ張って行かれた先は、いつも楽しかったよ。
でも姉さん、いじわるするし。
全部プラスマイナスゼロだよ。楽しいのも、悔しいのも」
「うぅぅ。なんだよ、それ」
「だから」
モコは、姉のほうを見なかった。
「私に無理やり演奏妖精やってって言われたことが、嬉しいみたい」
「……ははは。なんだよそれ……相変わらず、めんどくさいやつだな」
「!? ひどい……でも、私もそう思う」
五
「……私が、ライカのこと守るよ」
「……ありがとうね、モコ」
姉が鼻をすすった。
「ぐすん。モコが引き受けてくれたら心強い。でもさ」
「?」
「私が復帰するまででいいから」
「ほえ?……また戦うってこと?」
「ライカが戦うって言うなら、復帰してライカと一緒に戦う。
そして、どっかのタイミングでやめさせる。絶対にライカを連れ戻す」
プリンの容器が、指の中でへこんだ。
「姉さん……私には、万が一のことがあってもいいの?」
姉の目が、はじめて丸くなった。
「!? それは誤解」
早口だった。
「戦って欲しいって言ったけど、正確には……本当に危ないと思ったら、ライカを連れて逃げて欲しい。あいつに無茶をさせないでほしいの」
「……それなら、そう言えばいいじゃない」
「ははは。そうだね。悪い、悪い」
姉は笑った。まだ目が赤かった。
「でも、最低限は戦えなくちゃ、ライカのことを守れないと思うから。
……モコ、私が特訓してあげる」
「……特訓?」
「そう! 特訓だよ。演奏妖精として戦えるようにさ。
ちょっとした、不思議なコツみたいなものがあるんだよ」
姉は右手の人差し指を立てて、弦を弾くみたいに小さく動かした。
「この特訓で、鈴もライカも戦えるようになったんだよ。
へっへっへ。すごいでしょ?」
「……」
「正直、ベースの腕前は私よりモコの方が上手だから。
モコならすぐ戦えちゃうんじゃないかな?」
「ベースは姉さんよりも上手い自信はあるけど。……戦うって」
「モコ、ベース弾き始めると別人になっちゃうからなぁ。
特訓したら、私より強いんじゃない?」
「……なんかもう、完全に巻き込まれてる」
「頼りにしてるよ、モコ。ありがとうね」
姉は、もうシーツの上で指を動かしていた。
「じゃあ、さっそく始めちゃおっかぁ」
「……今から? ここで?」
夜の病室だ。ベースは一本もないし、姉の左腕は吊られている。
「大丈夫大丈夫。最初は形からだから」
「形って何よ」
「んー……気合い?」
「……」
「あ、っとその前に」
姉が、右手をこちらへ伸ばした。
「プリン、ちょうだい。あーん」
モコは動かなかった。
「あーん」
左腕は吊られたままだ。
自分では、ふたも開けられない。
分かっている。分かっているけれど。
モコはため息をついて、袋からプリンをひとつ取り出した。
ふたを剥がす音が、静かな病室にやけに大きく響いた。
「……はい」
「わーい」
六
病院を出ると、夜の風が顔に当たった。
東葉駅に電車が入る低い唸り。踏切。誰かの自転車のベル。
高い音は途中で消えて、低い音だけがよく届く。
昔からそうだった。
テレビから流れる曲のベースラインを最初に聴き分けたのは、姉ではなくモコだった。
――ベース弾き始めると、別人になっちゃうからなぁ。
左手の指が、いつのまにか動いていた。
四本の弦の位置を確かめている。
(……別人、か)
ライカに会って、ちゃんと謝りたい。ちゃんと話さなくちゃ。
そして、姉たちを助けてくれた紫音という女の子にも。






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